バイブレーショナル・メディスン抜粋3
あらゆる物質がエネルギーの諸形態であるということを認識さえすれば、人間を、ダイナミックなエネルギー系として理解するのはたやすい。
アルバート・アインシユタインは有名なE=mc^2という方程式をもちいて、「物質」と「エネルギー」は同一の普遍的実体が二元的に表現されたものであることを-証明した。
その普遍的実体とは、われわれすべてをかたちづくっている根源的なエネルギー、もしくは「波動」のことである。
だからこそ物質の基本的な波動またはエネルギーレベルを調整することによってからだを癒そうとする「波動医学」という手法もかんがえられる。
ただし、こうしたアインシユタイン的な視点は、物理学者のあいだではしだいに受けいれられるようになってはきたものの、いまだに医師の人間観や疾病観に影響をあたえるまでにはいたっていない。
現代医学の思想基盤であるニュートン的モデルは、人間の生理・心理学的な活動を、脳とからだという構造的なハードウェアに依存して成り立つものだとかんがえる。
たとえば心臓は、酸素と栄養の豊富な血液を脳と全身の臓器におくるための機械的なポンプである。
医師は心臓の機能についてはじゅうぶんに理解できているとかんがえているから、だめになった心臓にとってかわる機械を発明しようとする。
また医師の多くは、腎臓の主要機能は自動液過と物質交換にあるとかんがえている。
そこで、透析装置を開発し、不純物や有害物質の液過という腎機能を機械でそっくりおきかえてしまう。
医療技術の進歩は医師にさまざまなパーツを供与し、臓器や血管を交換することが可能になったが、多くの疾患をいかに治し、あるいは予防するかといった、より重要な問題についての知識は、残念ながらまだじゅうぶんとはいえない。
人体機械論にもとづいた最初のニュートン医学的アプローチは、外科手術である。
初期の外科医たちは、人体は複雑な上下水道網のようなものであるという基本的前提のもとに手術をおこなっていた。
現在の外科医も、「病変」部分をとりのぞき、システムをふたたび正しく機能するようにつなげ直すのが仕事である以上、高度に洗練された「生物配管工」だとみなすこともできる。
手術より後に進歩した薬物治療も、くすりという道具をつかつて故障したからだを「修理」するという点ではかわりがない。
かんがえかたは多少ちがっていても、人体を複雑な生物機械としてみている以上、やはりどちらもニュートン・モデル的なのである。
手術でメスをつかうかわりに、内科医は標的となる組織に薬物という魔法の弾丸を打ちこむ。
薬物は医学的な必要におうじて、正常な細胞を保護・強化し、異常をきたしている細胞を死滅させるためにつかわれる。
分子生物学が進歩したおかげで、よりいっそうの効果をもちながらも毒性はすくないといわれる魔法の弾丸が、よりこまかい特殊な要求にあわせて合成されるようになってきた。
薬物療法も外科手術も病気の診断・治療に飛躍的な進歩をもたらしたが、そのいずれも、人体は各臓器、化学物質、酵素、細胞膜レセプターなどの部品からなる複雑な機械であるという、ニュートン・モデル的人体観にもとづいていることにはかわりがないのである。
ニュートン・モデル的な生命観は、じっさいにはリアリティの近似的な像にすぎない。
薬物療法や外科手術が完全とはいえないのは、そのどちらも、生物機械に生命をあたえ、その活動の源になっている「生命力」というものの存在を無視しているからである。
機械のばあい、全体の機能は部分の総和として予測できるという原則が成り立つ。
ところが人聞は機械とは異なり、膨大な化合物の総和以上のものである。
あらゆる生き物は、微細な生命力に依存することで生かされており、生命力とは、八刀子からなる独得の規則的配列を介して作用する相乗効果の源となるものである。
その相乗効果があるからこそ、「生きた」全体は部分の集まり以上のものになりうるのである。
生命力はつねに生命体の秩序を生みだし、細胞レベルでの表現形をたえず更新しつづけている。
死に臨み、生命力がからだをはなれてしまうと、生理機能はしだいに失われ、ついにはまったく秩序のない化学物質のかたまりになってしまう。
それが生物と無生物、人間と機械とを区別する原理のひとつである。
・・・(中略
現在、科学が生命力というものをあっかいきれないことには理由がある。
それははるかむかしにおこった、東洋と西洋の思想体系の対立がひとつの契機となっている。
東西の世界観の相違には、じつは何千年もまえに生じた「宗教と科学の分裂」がいまだにその痕跡をのこしているのである。
科学者が人体のしくみをニュートン的モデルで説明しようとする行為の背景には、人体の機能を神の領域からひきずりおろし、人間が理解し、操作できる機械論的な領域にうっそうとする態度が反映している。
人体を機械論的に理解しようとしているうちに、人間を生かしつづけ、あるいは病気や死に追いやる不可思議な力を宗教的に解明しようとする行為には関心を示さなくなり、機械論のさらなる発展へとむかつていった。
・・・(中略
ところが現在、「エネルギーとしての物質」という革命的な視点から人間存在の機能を理解しようとしているあたらしい医師や治療家が頭角をあらわしてきた。
精神的/霊的にめざめた科学者たちは、たんにわれわれ自身を理解するだけではなく、自然に内在するしくみ宇宙の神秘を理解するための手がかりとして、まず人体のしくみそのものを学ほうとかんがえている。
「人間はエネルギー的存在である」という事実に・気づくとき、健康と病気についてのあたらしい理解が示されるようになる。
このあたらしいアインシユタイン的な視点は、未来の医師たちに独自の病因論のアイデアを提供するばかりか、より効果的な治療法をも提供することになるだろう。
薬物や手術という従来の方法のかわりに、波動医学では、治療そのものに純粋な「エネルギー」がつかわれる。
波動医学理論の支柱になっているのは、分子の集合体だとかんがえられていた肉体が、じつは「エネルギー場が織りなす複雑なネットワーク」であったという理解である。
すなわち、物質や細胞という枠組みとしてあらわれているそのエネルギー・ネットワークは、生命力とからだとの調整をおこなう「微細な」エネルギー系によって組織され、維持されている。
また、物理的な身体内部の細胞構造だけではなく、電気生理学的機能や内分泌機能も、階層構造をもったそれぞれの「微細エネルギー系」によって調節されている。
そもそも健康状態の変化そのものが、そのような微細レベルから生じるものなのである。
その独自のエネルギー系は栄養状態や環境因子のみならず、感情や精神的霊的なバランスの度合からもおおきく影響を受けている。
逆にこの微細なエネルギー系も、細胞の生長パターンによい影響をあたえたり、わるい影響をおよほしたりしている。
異常な細胞のかたまりを物理的に修復したり除去したりすれば病気はすべて治せるというかんがえかたによって、現代の医学はあやまった方向にみちびかれてしまった。
医師は、まるでハイテク装備の配管工がつまった排水管を修理するように、薬物や手術で粥状硬化症をおこした動脈を再開通させようとする。
医師は薬物によって、コレステロールが沈着した部位の血流量を増加させようと試み、それが無効だったばあいには、バルーンをつかつて血管の内腔を拡張し、さらにはレーザーで血流障害の原因である堆積物をこわそうとする。
つまりかけた古い動脈のバイパスとしてべつの血管を縫着する方法も最近ではふつうのことになった。
だが、そうした再発のおそれがある病態を治療するさいには、「応急修理」的な物理的解決法ではなく、細胞の障害発現のもとになっている「エネルギー場のパターン化現象」そのものを調整することが重要なのである。
医師はあまり口にしたがらないが、人体の生理学にはまだほとんど解明されていない領域がある。
「霊」の領域、および「肉体と霊との関係」がそれだ。スピリチュアルな次元はあらゆる生命のエネルギー的な基盤である。
霊的エネルギーが、からだという枠組みを活かしているからである。
物質的身体と霊的かつ微細な力との目にみえないつながりにこそ、物質とエネルギーの内的関係を解きあかす鍵があるのだ。
科学者が物質とエネルギーの真の関係を理解しはじめたとき、科学者にとっての神と人との関係も一歩、真の理解にちかづくことになる。
人類にこのあたらしい理解のレベルをもたらすのが波動医学の役割である。
波動医学は、生命の物質的表現をみちびいているエネルギーパターンにはたらきかけることによって、病気を癒し、人間の意識変革をもたらす。
われわれはいつの日か、意識そのものがひとつのエネルギーであり、それが肉体の細胞レベルにおける変化に不可欠のかかわりをもっていることに気づくだろう。
ようするに、意識は健康状態に刻々と変化をあたえているのである。
未来科学としての波動医学には、「いつも健康な人がいるいっぽうで、つねに病気を患っている人がいるのはなぜなのか」という疑問にたいする解答のヒントも含まれている。