バイブレーショナル・メディスン抜粋4
「上なるものは下なるものの如し」ー自然界におけるホログラフィー原理
高度に象徴的なレベルでいえば、「あらゆる断片が全体を含んでいる」というホログラフィーの原理は、すべての生物の細胞構造にみることができる。細胞生物学の科学的発見は、人体のどの細胞内にも原型となるDNAの青写真が含まれていて、それだけの情報があれば完全な人体を一からつくりだせることを立証してきた。
それを実現したのが生きた細胞のクローニング技術である。クローニング技術はさまざまなな生命形態の複製をつくるために利用されている。そこでは受精卵のDNA物質が除去され、たとえば成熟したカエルの腸細胞のDNAと交換される。それぞれの体細胞内における指令には、他のどの細胞ともおなじ一群の情報が含まれているので、有性生殖なしにまったくおなじカエルをつくることができるのだ。いわば「ハイテク処女懐胎」である。遺伝学的青写真のもつ潜在力は、受精卵のような適当な保護的環境が存在してはじめて発現する。すべての細胞が完全な人体を複製するのにじゅうぶんな情報をもっているという事実には、すべての断片が全体の情報をもっているというホログラフィー原理が反映している。ホログラフィー原理はまた、人体の物理化学的構造に関与している生体エネルギー場の理解にも役立つ。
科学は、生体の生長・発達・修復の理解とともにおおきく進歩してきた。その理解の大半は、細胞核内の遺伝コードの解読という高度な技術によるものである。核はあきらかに、細胞内および細胞聞の複雑なプロセスおよび相互作用をコントロールする中枢である。DNAを含んでいる細胞核内の染色体をしらべることによって、われわれは細胞の複製・生長、そして原始的な胎生期の細胞から特定の機能をもった特殊な細胞への分化の過程をよりくわしく理解することができた。しかし、われわれのDNAにかんする知識は、分化した胎児の細胞がいかにしてその特殊な機能を発現するのに適した空間上の場所へたどりつくかを説明するにはまだ不適切なものである。
(中略)
エーテル体の科学的証拠
ホログラフィックな「エネルギー身体」の存在を支持する最初の証拠は、一九四〇年代に活躍したエール大学の神経解剖学者、ハロルド・サクストン・バーの研究である。バーは生きている動植物の周囲に存在するエネルギー場の形態について研究をしていた。そのなかに、サンショウウオのからだをとりまく電場の形態についての研究がある。かれはサンショウウオの周囲に、そのからだとほぼおなじかたちをした電場が存在することをみいだした。しかもその電場が、脳と脊髄をとおる一本の「電気的な軸」をもっていることを発見したのである。
その電気的な軸が発生のどの段階で生じるのかをこまかくしらべようとしたバーは、サンショウウオの発生初期から電場の形態の変化を記録しはじめた。そして、その電場がすでに未受精卵の時期に生じていることを発見した。この発見は、その当時の生物学や遺伝学の正統的理論とは矛盾するものだった。
(中略)
多くの形而上的な文献をひもとくと、生体をつつみ貫いているそのエネルギー場が「エーテル体」として言及されていることがわかる。エーテル体は、人間の最終的な表現形態を決定している数多くの不可視の身体のひとつであるとされている。エーテル体とはおそらく、ホログラムと同様な、エネルギーの干渉パターンのひとつであるにちがいない。ホログラフィー的モデルは、将来においてもさらにひろく応用されていくだろう。ひょっとするとこの宇宙そのものが巨大な「宇宙ホログラム」なのかもしれないのだ。すなわち、宇宙はとてつもなく巨大なエネルギーの干渉パターンかもしれないのである。そのホログラフィックな性質によって、宇宙のあらゆる断片は全体の情報を保持しているばかりか、全体の情報に寄与してもいるのである。宇宙的ホログラムは時間の流れのなかで凍りついた静止写真というより、一瞬一瞬ダイナミックに変動しているホログラフィックなビデオテープにちかいものであろう。では、そのようなホログラフィックな宇宙観を支持する理論的根拠について吟味してみよう。
素粒子物理学からの知見ー凍結した光としての物質、その医学的意味
錬金術などの秘教には、「下なるものは上なるものの如し」という成句がある。この成句は、「微視的なレベルでみられることは巨視的なレベルでもみられる(反映されている)」という意味に解釈されているが、さらに掘りさげて解釈すると、われわれが自分自身(下)をよりふかく理解すれば、まわりの宇宙(上)もよりふかく理解できるようになるということになる。
たとえば、単一細胞の視点からこの世界をしらべてみよう。細胞核内のDNAには、細胞の活動における構造的・生理学的な表現形が暗号化されている。しかしDNAはただの情報マニュアルにすぎず、細胞という体制のなかでその指令を実行する役者が存在しなくてはならない。細胞というシナリオを演じる役者とは、酵素、すなわちタンパク質のからだをもち、毎日たくさんの生化学的な仕事をしている存在のことである。酵素は化学物質の特定の反応の触媒となって分子のくみたてをおこない、あらたな構造物をつくりだし、電気化学反応の火花を散らして細胞エンジンを駆動させ、全システムの効率的な活動を維持する役目をになっている。酵素をつくるタンパク質自体は、ひもにとおしたピーズのようなアミノ酸のつらなりでできている。アミノ酸表面の多様なプラスとマイナスの電荷によって、引力と斥力がはたらき、ビーズ状に列をなしたアミノ酸は「自動組立」によって機能的な立体構造をとるようになる。その構造の中心部分は巨大分子の「活性部位」(または作用部位とよばれ、化学反応の触媒にかかわる部位である。DNA分子にはさまざまな「色のついた」アミノ酸の配列が、それぞれのタンパク質の種類におうじて遺伝的な構造の記憶として暗号化されている。
さてそうした分子は、さらに小さな原子という粒子の集まりであることがわかっている。西洋の科学技術が「原子とはなにか」という間いに答えられるようになるまでに進歩したのは、十九世紀になってからのことであった。原子がさらに電子、中性子、陽子にまで分割可能であることは現在では常識になっている。すべての物質は、たとえば電子のような素粒子の無限に異なるくみあわせからなっている。しかしじつのところ、電子とはいったいなんであろうか?
その疑問はほぼ一世紀のあいだ、活発な議論をまきおこしてきた。この基本的な疑問に答えることは、原子の構造や宇宙の構造そのものを理解するうえでたいへん重要である。それはわれわれの物理学、および「相補性」という独向な概念の理解が進む過程における、ひとつの転換点になるだろう。相補性とは、この世界が白と黒とからできているのではなくて、さまざまな濃淡の灰色からなっているとするかんがえかたである。この相補性というかんがえかたは、一見たがいに異なったもの、あるいはまったく正反対のふたつのものがおなじ物体のなかに同時に存在し、しかも平和的に共存することを許容するものだ。相補性原理がもっとも効果的に応用されたのは電子の性質の記述においてだが、それはまたよりおおきな混乱をも同時にひきおこすことになった。
二十世紀初頭におこなわれたある実験で、科学者は電子が小さなビリヤードボールのようにふるまうことを記録している。電子は衝突のさいに、衝突するビリヤードの玉とおなじく、はじきあう。これはニュートン物理学の機械論的な思考からも予測可能な結果である。しかし混乱は、べつの実験で、光波のようにふるまう電子の特性が示されたときにはじまった。
電子の奇妙な波動的ふるまいを示したこの有名な例は、「二重スリット実験」とよばれるものである。その実験では、たったひとつの電子が同時にふたつのスリットをくぐりぬけるらしいということが示された。そのような離れわざは、ビリヤードの玉ではとうていかんがえられないことである。しかしまたべつの実験によると、ふたつの電子線をたがいにぶつかるように発射すれば、電子は小さなビリヤードの玉のようにたがいにはじきあう。だが電子が粒子ではなく波動であれば、ふたつのスリットを同時に通過することができる。それでは波動と粒子の両方の性質をもっているようにみえる電子とはいったいなんなのだろうか?電子は粒子と波動の両方の性質を示す。たがいに相いれない、エネルギーと物質という特性が電子のなかで共存しているのだ。これこそがまさに相補性原理の真髄である。電子は純粋なエネルギーでもなければ純粋な物質でもなく、両者の要素をもちあわせている。この矛盾を、電子を「波動の束」とみなすことによって解決しようとしている物理
学者もいる。電子のような素粒子にみられる「波動と粒子の二重性」はエネルギーと物質の関係を反映しており、これは、二十世紀初期にあらわれ、有名なE=mc^2の公式とともによく知られるアルパート・アインシユタインによってあきらかにされた。物質とエネルギーは変換可能である。これは、物質がエネルギーに変換可能であるばかりか、エネルギーもまた物質に変換可能であるということを意味している。実験室で人為的にその偉業をなしとげた物理学者はまだいないが、その現象は実験用核反応施設の霧箱内で観察され、写真にも撮られている。
宇宙線、すなわち高エネルギーをもった光子は、重い原子核のちかくを通過するとき、自然に粒子と反粒子のペアにわかれ、フィルム上にその痕跡をとどめる。これは文字どおり、エネルギーが物質に変換している証拠である。その反対に、物質と反物質が衝突すると、膨大なエネルギーを放出しながら消滅していくことがわかっている。
光と物質の相互変換性はじつに奇妙な現象であり、いってみれば、一度リンゴがオレンジに変わり、ふたたびリンゴにもどるようなものである。だが、われわれが目撃しているのはほんとうに、まったく異なるふたつの存在の変換なのであろうか(たとえば固体の氷が昇華して水蒸気になり、液体の凝縮した蒸気が凍って氷にもどるというように)。ある種の根源的、普遍的な実質の、「状態の変化」を目撃しているにすぎないという可能性はないのだろうか?この解釈は、電子のような粒子波動の二重性の概念にあたらしい「光」を投げかけてくれる。
高エネルギーの光子がふたつの粒子にわかれるという例を、再度吟味してみよう。エネルギーが物質に変換する瞬間、光子(光すなわち電磁エネルギーの量子)は粒子になろうとして減速をはじめる。その過程で、光子はあるていど(たとえば質量のような)固体の性質を獲得するが、まだ波動的な特性ものこしている。その波動的な特性は、たとえば電子顕微鏡のように、電子線が光線としてあつかわれるようなある種の実験以外ではかくれていて顕在化することはない。かんたんにいえば、光の束は、減速して凍りついてしまっているのである。その凍りついた一粒の光子は微小なエネルギーの干渉パターンともみなせるし、極小空間をしめる微視的なエネルギー場であるともいえる。このような素粒子物理学の世界にわけいるとき、われわれは、固体という巨視的な幻影が溶け去っていく姿を目のあたりにする。さらにくわえて、原子はほとんどからっぽの空間からできているという事実を認識しなければならない。なにもないその空間を埋めているのは、まさに凍結した光の束なのである。
微小宇宙のレベルでかんがえれば、すべての物質は凍結した光なのである!
物質は高度に複雑化し、無限に調和したエネルギー場でできている。そのくみあわせは、物理学が解きあかそうとしてきたさまざまな「自然の法則」によって支配されている。その理論モデルの説明には、的確にも「場のなかの場」ということばがつかわれてきた。そのかんがえかたを生体に応用すれば、物質的身体の細胞質には、「エーテル体」という、構造を決定する生体エネルギー場と相互に浸透しあう、複雑な「エネルギー干渉パターン」をみることができよう。
「特殊なエネルギー”場”としての物質」という理解は思想の革命であり、この本の中心的テーマであり、以下の議論の土台となっているものである。それはまた、従来の「ニュートン」医学的アプローチから、物質にかんするより深い理解をもって人間の病気に接する、筆者がよぶところの癒しの「アインシュタイン的」パラダイムへの転換の出発点でもある。波動医学は、癒しのアインシユタイン的パラダイムにもとづいた体系的なアプローチである。波動医学とは、物質的身体の背後に存在し、その機能的表現に寄与している、根源的な微細エネルギー場に直接はたらきかけようとする試みである。ニュートン・モデル的な薬物動態学的アプローチが、主として酵素やレセプターのような分子の相互作用をあつかうのにたいして、医師はこのあたらしいエネルギー・モデルによって、より根源的で微細なエネルギーレベルの治癒系を認識することができるようになるだろう。